【若い頃】デヴィ夫人は絶世の美女だった!東洋の真珠と呼ばれた大統領夫人になるまでをご紹介

 81歳とは思えない美しさと変わらない品格を感じさせるデヴィ夫人。(2021年)

60年前のデヴィ夫人の若い頃が、絶世の美女と話題です。

デヴィ夫人の若い頃の画像ハーフ美人顔の秘密について時系列でご紹介。また、総入れ歯の噂についても調査してみました。

デヴィ婦人|プロフィール

ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ

日本名 根本七保子

誕生日 1940年2月6日

年齢 81歳(2021年)

血液型 A型

身長 159㎝

インドネシアのスカルノ元大統領 第3夫人

【画像】デヴィ夫人の若い頃|少女が大統領夫人になるまで

バラエティ番組やメディアで、気高いたたずまい、痛切なコメントで人々を圧倒させるデヴィ夫人。

そんな切れ者のデヴィ夫人のお若い頃は、「東洋の真珠」と言われ世界中の注目を浴びたそうです。

恋人は各国の貴族やセレブ有名人だったとか。

さっそく見ていきましょう。

デヴィ夫人の若い頃の画像

デヴィ夫人は、ご結婚前の名前を根本七保子(ねもとなおこ)さんといいます。

こちらが、デヴィ夫人の美しいお若い頃の画像です。(18歳頃)

映画の女優さんのような、美しさですね。

目鼻立ちも整っていて、品があります。本当美しい。

デヴィ夫人は「東洋の真珠」と呼ばれ、その美しさを讃えられていました。

こちらのデヴィ夫人は、妖精と言われたハリウッド女優「オードリー・ヘップバーン」のようですね。

可憐で、知的な印象で素敵です。

ちなみに、こちらが若い頃のオードリー・ヘップバーンです。

デヴィ夫人とオードリー・ヘップバーン、似ていますね。

 

もう少しさかのぼって、デヴィ夫人のお若い頃の画像を見てみましょう。

こちらはデヴィ夫人が16歳の頃の画像です。

かなりの美少女。大和撫子ですね。

 

デヴィ夫人は、東京都麻布出身。

今では高級住宅地で有名な麻布とはいえ、当時、人の良い大工をされていた父親を持ったデヴィ夫人は、貧しい勤労学生だったそうです。

戦後の貧しい時代で大変苦労をしたそうですが、そんな雰囲気をちっとも感じさせませんね。

 

こちらは、インドネシア元大統領スカルノ大統領とご結婚された後のデヴィ夫人です。(当時20歳)

大統領官邸ムルデカ宮殿にて、スカルノ元大統領とデヴィ夫人です。

デヴィ夫人は、その秀でた美しさを見初められて、インドネシアのスカルノ元大統領の第3夫人になります。しかも超年上。どうして?と驚く方も多いと思います。

どんなに美しくても、さすがに一国の大統領夫人になれるのはありえない話。それが、完全にスカルノ元大統領の一目惚れでした。

 

そして、フランスのパリ社交界では、その美しさから「東洋の真珠」と呼ばれたデヴィ夫人。

貴族やセレブ有名人からプロポーズを受けていたことも。

社交界デビューができるということは、美しさだけでなく本当の教養とユーモアが備わっていた証拠なのだそうです。

 

戦後の貧しい少女が、混乱の中で選んだ、華麗なる波乱万丈な人生。

引き続き見ていきましょう。

ハーフ美人顔の秘密はクオーター?

デヴィ夫人は1940年2月6日生まれ。東京都東京市麻布区霞町の出身です。(現在の西麻布)

デヴィ夫人の父は兵七郎さん、母は政子さんの長女として誕生しました。

なので、デヴィ夫人は生粋の日本人なのですね。

画像を見てみると、デヴィ夫人の父の兵七郎さんも母の政子さんも、目鼻立ちが整った美形なお顔ですね。

ネットの情報によると、デヴィ夫人の母、政子さんは近所でも有名な美人だったそうです。

デヴィ夫人の母は、2人の夫に先立たれてデヴィ夫人の父とは3回目の結婚。デヴィ夫人を授かったときには、2人共40代で高齢出産だったそうです。

3回目の結婚ができるのも美人だったことが理由の一つかもしれません。ですが、それだけ女性が一人で生きていくのには大変だった時代なのだろうなと思います。

デヴィ夫人の父は大工の棟梁でしたが、「お人好し」だったためお金をもらわずに家を建てていたんだそうです。なので借金生活で貧しかったと言われています。

デヴィ夫人の少女時代は、太平洋戦争のため福島県に母と弟と疎開。

戦後1955年、デヴィ夫人は15歳のときに家計を助けるために、東京都港区立高陵中学に進学すると東芸プロダクションに研究生として入団しました。デヴィ夫人、美少女ですね。

裕福でなかったので母にラクをさせてあげたい思いで、デヴィ夫人は女優になって貧乏から抜け出そうと考えたのだそうです。

デヴィ夫人は、演技や日本舞踊を習い始めると、エキストラとしてテレビや映画に出演するようになり稼ぎ始めました。

こちらの画像は、浅丘ルリ子さん(中央)とデヴィ夫人(左)の写真です。

 

デヴィ夫人の有名な作品はとしては、1955年の新東宝制作映画「青ヶ島の子供たち女教師の記録」にエキストラ出演。しかし、家計は苦しくエキストラの仕事だけでは足りなかったのだそうです。

デヴィ夫人は、定時制高校に通いながら千代田生命保険会社(現在のジブラルタ生命保険)に就職。お昼休みの1時間は会社の近くの喫茶店でアルバイト、土日もコーヒーショップでアルバイトをして家計を支えていたのだそうです。

結構ハードな生活ですよね。

1956年にデヴィ夫人の父親が他界。

デヴィ夫人は、高校は中退することに。デヴィ夫人は母親と弟を養うために様々な仕事をして働き尽くめの毎日となりました。

責任感があって家族思いなのですね。

 

そこで転機がやってきます。1957年、デヴィ夫人はが17歳の時にアメリカ人宝石商のジェイムズ・ベーカー氏と知り合います。

お金持ちだったベーカーさんに色々なところへ連れて行ってもらうようになると、赤坂の高級クラブとして有名だった「コパカバーナ」にも行くようになりました。

 

ネットの情報によると、どれくらい高級だったかをデヴィ夫人はコメントしていたのでまとめました。

・お客さんの90%が外国人。

・世界の社交場のような名声を得ていた。

・フランク・シナトラが歌った日のテーブルチャージ10万円(大学新卒の給与1万円の頃)

現実味がないですが、莫大な資産がないと行けない超一流なことはわかりますね。

18歳、当時のデヴィ夫人

その後、「コパカバーナ」のオーナー長尾久子さんに気に入られて、デヴィ夫人は高校を中退して赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働き始めたのだそうです。

すぐに、デヴィ夫人はその美貌でプリンセスと呼ばれて一躍人気者に。

ネットの情報によると、学生の時から勤勉だったデヴィ夫人は真剣にマナーから経済まで勉強したそうです。一流の外国人と会話をしながら、英語を話せるようになり世界進出のチャンスを狙っていたのだそうです。

 

この一流の人々のみの世界観がわかる、デヴィ夫人のコメントがあったのでまとめました。

・新聞の朝刊でアメリカ上院議員テッド・ケネディ氏が来日すると、夜は彼の姿がそこにあるというくらいの社交場。

・働く女性はファッション誌から抜け出したような人ばかり。

・全てがレディーファースト(遊びに来られた紳士が女性の椅子を引き、飲み物をオーダー、ダンスでは手を差し伸べる)

・デヴィ夫人は、「わたくしは美しい花。そう、レディに憧れをいだいていました。」と当時を回想。

デヴィ夫人の、ちょっと普通の人とは感じがあるのが、納得の世界観です。

このような世界に居たら、世界を舞台に生きていきたいとスケールが大きくなるのでしょうね。

デヴィ夫人は一流の紳士たちと対等に話す、一流のレディへと変貌を遂げたのでした。

インドネシア大統領との馴れ初めは?

1959年、デヴィ夫人が19歳の時に2度目の転機が訪れます。

デヴィ夫人は旧帝国ホテルのプルニエ(フランス風の魚介類料理専門のレストラン)で友人と待ち合わせをしている時に、同じホテルのパーティーに出席していたスカルノ元大統領とすれ違い、まさかのスカルノ元大統領が一目惚れ

スカルノ元大統領からデヴィ夫人にアプローチがあったのだそうです。

スカルノ元大統領の側近が、「大統領と一緒にお茶を飲みませんか?」とすぐに声をかけに来たそうです。

デヴィ夫人は、誘われ案内されるままに大統領の隣りに座ることになったそうです。

当時のことを振り返り、デヴィ夫人ははスカルノ元大統領の第一印象について「特別」なものを感じたそうです。デヴィ夫人のコメントをまとめました。

・大きな目がキラキラ、八重歯がチャーミングで印象的。

・第一印象で慈悲深い大きな優しささを感じ、一瞬イナズマに打たれたような感覚がはっきりあった。

・クラブで出会った大富豪と対等にお付き合いしてきたが、その時の雰囲気は特別だった。

・とても緊張した。

・しばらく談笑してその日はお別れした。

デヴィ夫人は沢山の一流人と出会っていたので、見る目が養われていたはずです。

スカルノ元大統領のお人柄、人間的な部分を感じ取ったのかも知れませんね。

その後、デヴィ夫人はスカルノ元大統領に写真を送ってほしいと手紙をもらい、写真を送ると3ヶ月文通したのだそうです。

ある時、「2週間くらいインドネシアに遊びに来ませんか?」とお誘いが。

当時のデヴィ夫人は、アメリカやフィリピンの大富豪たちから求婚されていたそうですが、「それでも、自分の人生は他にあるのではないか」と、決められずにいたのだそうです。(戦後なのでアメリカや華僑の大富豪だと予想)

そこで、スカルノ元大統領からのお誘いに、一国の大統領とあって多少の不安はあったそうですが、「インドネシアに行ったら、何か閃きがあるかも知れない」と思い、決断。

 

そして、ネットの情報によると、インドンシアの開発援助に伴いデヴィ夫人は「東日貿易の秘書」としてスカルノ元大統領のもとへ。

当時のインドネシアは独立直後の東西冷戦下。日本外交や資金援助の取り付けを重視していたそうです。

昭和のフィクサーと呼ばれていた暴力団関係者の児玉誉士夫が、デヴィ夫人とスカルノ元大統領の出会いに関わっていたとも言われています。

そのような経緯もあり、「夜のプレゼント」と暗に言われてしまっていたのも事実なのだそうです。

(世界的に大きな動きが両国にあったのでしょうね)

デヴィ夫人がインドネシアに着くと、スカルノ元大統領が日本の歴史に詳しく、お互いに幼少時代貧しかったことから、2人はより親密に。

ある時、首都のジャカルタから専用のジェット機でバリ島の離宮で、真っ赤な太陽が沈んでいくのを眺めていたそうです。すると、スカルノ元大統領が突然、プロポーズ。

 

私のインスピレーションとなり、力の源泉となって、私の人生の喜びとなって下さい。

 

デヴィ夫人は、「このような美しい言葉は、これからの人生でもう聞くことはできないのではないか」と思うほどに心を打たれたそうです。

 

「私は、この偉大な大統領から選ばれたのだ。これはもう神の天啓なのだ。

そしてこの方に選ばれたのだから、全身全霊を持ってこの方に尽くそう。」

 

そう、デヴィ夫人は決心されたのだそうです。このことによって、2週間の滞在がずっとインドネシアに留まることになったのでした。

宮殿の生活は豪華絢爛。

メイド14人、庭師3人、護衛24人。身支度は、デヴィ夫人が立っているだけで全てメイドがしてくれたそうです。

宮殿には大きなデヴィ夫人の肖像画が飾られ、一身に寵愛を受けていたデヴィ夫人。この画像からも、スカルノ元大統領の愛情が感じられますね。

インドネシアに渡って数年は、デヴィ夫人は愛人の1人だったそうですが、1962年にスカルノ元大統領と正式に結婚。

22歳のデヴィ夫人は、「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ」と名前を改め、4人の妻のうちの第3婦人になったのでした。

この画像のデヴィ夫人はすっかり大人になり、美しい貴婦人ですね。

結婚で母親と弟を失う

幸せなニュースとは裏腹に、日本では悲しい報道となってしまいます。

デヴィ夫人とインドネシアのスカルノ元大統領の熱愛は波紋を呼びました。2人がと結婚すると、メディアはデヴィ夫人のことを日本を捨てた売春婦と報道。国辱的なニュースとして取り上げられます。

デヴィ夫人の母と弟の元へは、執拗なマスコミが連日押し寄せ取材攻撃。

耐えられなくなったデヴィ夫人の母は、体調を崩して倒れてしまいました。母の危篤の知らせを受けてデヴィ夫人は帰国しましたが、甲斐なく40日後に他界。

その2日後、デヴィ夫人の弟は母の死を追うように、ガス自殺で亡くなられたのでした。ネットを調べてみると、友人2人から騙された借金も理由に合ったようです。

画像はデヴィ夫人の弟、八曾男さん。婦人と似てらっしゃいますね。

その日、デヴィ夫人と弟さんはお香典返しを買いに六本木のアマンドで待ち合わせていたそうですが、弟さんは来ず、怒ったデヴィ夫人は1人で買いに出かけたのだそうです。

後に、デヴィ夫人がこのことについてコメントされていました。

「母と弟を亡くしたことは本当に残念だったし、弟を自殺からなんとかして救えなかったか、それは本当に私が一生十字架を背負うくらい苦しんだことですね。」と、自宅へ戻って見れば良かったと、デヴィ夫人は無念を語られていたそうです。

デヴィ夫人は後悔の念から、ジャカルタの宮殿の一つを「八曽男(ヤソオ)」と弟の名前を付けられたそうです。(現在、軍事博物館)

今よりもプライバシーへの問題視が薄かった時代背景が、大変残念ですね。

社交界で「東洋の真珠」と呼ばれる

デヴィ夫人がスカルノ元大統領とご結婚されてからを見ていきましょう。

一身にスカルノ元大統領から寵愛を受けていたデヴィ夫人。しかし、母と弟が亡くなられた同時期に、スカルノ元大統領がハルヤティを第4婦人に迎えていたことが発覚。

母と弟の死、信頼して愛していた夫からの裏切り、マスコミからのバッシングに疲れ切って、遂にデヴィ夫人は睡眠薬を飲んで自殺を図ります。この件で、若い頃のデヴィ婦人は出産してから男性との交流が増えていったのだそうです。

そして、更に宮殿生活も3年後に一変します。

インドネシアで革命が起こると、デヴィ夫人はヨーロッパへ亡命しました。

デヴィ夫人が25歳の時にインドネシアで革命があり、スカルノ元大統領は軍事クーデターにより失脚。激しい政権交代があったのだそうです。

1970年、日本からの亡命を断られたデヴィ夫人は、フランスへ亡命します。

亡命とは

亡命の命は戸籍のこと。亡命とは、戸籍を失い他国へ逃れること。

政治的弾圧や思想の相違、宗教・人種的な理由による迫害を避けるために本国から逃亡し、他国へ庇護を求めること。他国は一般的にその人を保護する義務はない。

こちらは、長女カリナさんと出産されて間もないと思われるデヴィ夫人の画像です。

美しい大人の女性ながらも、少女のような笑顔ですね。

フランスへ亡命から2年後、デヴィ夫人が27歳の時に人道的配慮から日本への帰国を許可されて、念願かなって日本へ帰国。デヴィ夫人は日本で長女カリナさんを出産します。

この出産後から、デヴィ夫人の男性関係が華やかになっていきます。

スカルノ元大統領はまだ生きていらっしゃいましたが、有名俳優の本郷功次郎さんや津川雅彦さんと不倫し熱愛告白、勝新太郎さんや松方弘樹さんと京都で遊んだり、田宮二郎さんとデートしたり、とにかく遊び始めました。

デヴィ夫人は長女カリナさんを出産された後、インドネシアへ戻ろうと試みますが許可されず。再度フランスへ渡ることにしました。

デヴィ夫人が30歳の時に、スカルノ元大統領が死去。デヴィ夫人は相続権や地位を剥奪されていましたが、後年に第3婦人として遺産分与を受けることになったそうです。

そして、デヴィ夫人の30代は、芸能活動を再開して男性誌に自身の写真を掲載。

サリーをまとうデヴィ夫人。お美しいですね。

デヴィ夫人は、フランスへ渡ると社交界デビューを果たします。

ネットを調べてみると、ヨーロッパ社交界といえば、セレブでもただのセレブでは参加できない、本物の知性と話術が必要とされるのだそうです。そこで、デヴィ夫人は日本人唯一の社交界の華、その美しさを讃えられて「東洋の真珠」と呼ばれていました。

さすが、英語も堪能で美しいデヴィ夫人ですね。

デヴィ夫人はヨーロッパの公爵、伯爵やフランス男優アラン・ドロン、サルヴァトール・ダリなどセレブ有名人と噂になっていたんだそうです。

デヴィ夫人が美しい貴婦人になった時には、その華麗な社交術と美しさで引く手あまたの有名人と呼ばれるボーイフレンド・愛人・恋人がいました。

ネットの情報によると、恋人は20人以上いた時もあったとか。

こちらの画像は、フランス貴族エルゼアル・ド・サブラン公爵と婚約していた頃のデヴィ夫人。

7年のお付き合いでしたが、デヴィ夫人が白人ではなかったことや公爵と結婚するには多額の持参金が必要で用意できなかったことが理由で、結婚までには至らずだったのだそうです。

後年、デヴィ夫人はサブラン公爵とお友達として交流があるとブログでコメントしています。

 

その美しさと女性らしさからか、デヴィ夫人が50歳の時に肌の露出が多い写真集を出版。

しかし、スカルノ元大統領が亡くなられた後のインドネシアでは大問題となってしまいます。

当時、1990年からNYに移住して国連環境計画の特別顧問として活躍中だったでゔぃは、インドネシア国民からのバッシングが大きく、これ以降インドネシアに入れなくなったのだそうです。

お国柄もあると思いますが、自国の大統領の妻として振る舞いに気を配って欲しかったのでしょうね。

 

そして、デヴィ夫人が70代の頃、著書「選ばれる女におなりなさい デヴィ夫人の婚活論」を出版。

ヨーロッパ社交界で「東洋の真珠」と呼ばれたデヴィ夫人の恋愛哲学「婚活論」です。

 

ネットの情報によると、デヴィ夫人の著書は一躍ブームに。

著書の中には男性との恋愛で注目すべきメソッドが詳しく解説されているそうです。

メディアでは、男性に選ばれる重要なポイントは、「美しさではなく、女性らしさ」と、デヴィ夫人はコメント。さすがデヴィ夫人、核心をつく名言ですね。

デヴィ夫人の少女時代は、貧しくお金とは縁がなかった生い立ちでしたが、努力と知性で切り開いた未来だったことがわかりました。

【黒い噂】デヴィ夫人は総入れ歯?総入れ歯の仕事?

デヴィ夫人についてネットを調べてみると、「整形疑惑」や「総入れ歯の仕事」といった話題がありました。

どうやら、「デヴィ夫人が総入れ歯」といった噂があるようですが、これはデマでした。そして、総入れ歯の仕事は、噂に尾ひれがついてしまったようです。

画像元:ザ・テレビジョン

ネットの情報を要約すると、若い頃の嫉妬からはじまり、長らくデヴィ夫人の「総入れ歯疑惑」がありました。

しかし、デヴィ夫人が自宅で転倒して歯を折った時に、歯医者でレントゲンを撮った写真を公開。

デヴィ夫人の総入れ歯疑惑は晴れたのだそうです。しかも、公開して驚く事実がわかり、デヴィ夫人は入れ歯は一つもなく、歯の健康年齢も20代並みで高評価だったそうです。

画像元:Twitter デヴィ夫人NHKのナレーションを担当(2020年10月)

戦後の激動の時代を、華麗に生きてきたデヴィ夫人。

これからもお元気で、美しく歳を重ねられてほしいと思いました。

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